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10話. 病院からの電話

Author: 6jay
last update publish date: 2026-10-09 12:46:06

「まだ、手術が決まったわけじゃないんですか?」

怜奈は同じことを二度聞いた。移植コーディネーターの声は落ち着いていた。

――はい。現在は最終的な適合検査の段階です。結果が適合すれば、悠真くんが移植を受けられる可能性があります。

「私、今、東京にいないんです」

――承知しています。ご家族がすぐに到着できなくても、それを理由に手術自体が遅れることはありません。同意の手続きは、ご本人確認の後、先に遠隔で進められます。病院に登録されたご家族の連絡先も確認できています。

その説明を聞いて初めて、怜奈は息を吐いた。私が行けなければ、手術もできない。

とっさに、そう思ってしまった。今まで、何もかも一人で処理してきたからだった。

――ただ、状態が変わることもありますので、引き続き連絡が取れるようにしておいてください。

「はい。必ず」

電話が終わると、脚から力が抜けた。廊下のベンチに座り込んだ怜奈に、最初に気づいたのは黒崎だった。

「どうしたんですか?」

怜奈は答えようとしたが、声が出なかった。

「悠真に……提供できる心臓が、見つかったそうです」

黒崎の顔から冗談めいた気配が消えた。

「手術は?」

「検査中です。合えば、すぐに準備するって」

神崎と桐生も遅れて近づいてきた。神崎がすぐに言った。

「じゃあ、東京に行こう」

怜奈は首を横に振った。

「今、島から出る船が止まってるんです。風で」

「ヘリは?」

桐生が口を挟んだ。

「天候で船が止まっているなら、ヘリもまず運航の確認が必要です。無理に動く理由はありません」

神崎が彼をにらんだ。

「家族の手術だぞ。じっとしてろっていうのか?」

「ご家族がその場にいなくても手術は進められると、今聞いたでしょう」

桐生の声は、いつもより低かった。

「今必要なのは、怜奈さんが連絡の取れる状態を保ち、病院の説明を正確に受け取ることです」

怜奈はうつむいた。そのとおりだった。

だから、余計につらかった。自分は今ここにいて、10歳の弟は何100キロも離れた病院で、一人で検査を受けている。

黒崎が目の前にしゃがんだ。

「病院にもう一度電話して、担当者の名前と、今どの段階なのか、次の連絡がいつかを、書き留めましょう」

「自分でできます」

「わかってます」

彼はスマートフォンのメモを開いた。

「手が震えているから、俺が書き取るという話です」

怜奈はそこで初めて、自分の手を見た。本当に震えていた。

***

制作陣は、家族の重大な医療上の事情を理由に、怜奈の撮影を直ちに中断した。違約金も適用しないことになった。

安全上の問題も重なり、番組全体の日程がすでに調整中だったためだ。他の出演者三人も、その日の撮影を拒否した。

田代が困りきった顔で言った。

「全員抜けたら、今日撮るものがなくなりますよ」

黒崎が答えた。

「家族の手術の連絡を受けた人を立たせて、恋愛番組を撮ろうとするほうが、おかしいでしょう」

桐生も契約書を指した。

「医療上の緊急事態における、撮影中止の条項があります」

神崎は一言だけだった。

「今日はやるな」

田代はそれ以上、押し切れなかった。

午後6時、病院から再び電話があった。

最終適合検査を通過。移植手術の準備開始。

怜奈はビデオ通話で説明を聞き、電子署名で家族としての同意を示した。執刀医が自ら、手術のリスクと予想される時間を説明した。画面が消えると、怜奈はスマートフォンを胸に押し当てた。

涙はすぐには出なかった。むしろ、ひどく静かだった。

神崎が、少し離れたところに座った。今度は抱き寄せることも、手を握ることもしなかった。

「そばにいていいか?」

怜奈は目を閉じたまま、うなずいた。その一言が、不思議なほどありがたかった。

午後8時。

手術室へ入る予定だという連絡が来た。島を出るチャーター船は、翌朝の夜明けに天候を確認し、運航するか決めることになった。

怜奈は初めて、何もできなかった。お金も、演技も、戦うことも役に立たない時間。

黒崎は窓辺に座っていた。桐生は病院から伝えられた説明を、もう一度整理していた。

神崎はドアの近くに座り、静かにスマートフォンを眺めていた。

三人の誰も、「絶対に大丈夫だ」とは言わなかった。

代わりに、立ち去らなかった。怜奈には、そのほうが信じられた。

電子同意の手続きが始まったとき、怜奈は知らない言葉が出るたびに止まり、尋ねていた。

「この項目は何ですか?」

――手術中に想定外のことが起きた際に必要となる、追加の処置についての同意です。ご説明しますね。

コーディネーターは急かさなかった。執刀医も映像でつながり、手術のリスクを一つずつ説明した。

説明を聞きながら、怜奈は何度も唇を噛んだ。お金持ちが代わりに決められることではなかった。

有名人が電話して順番を変えられるものでもない。結局、今できるのは、聞いて、理解して、同意することだけだった。

署名ボタンを押した後、怜奈は長く画面を見つめていた。桐生が何も聞かずに、水を一杯、横に置いてくれた。

今度はその小さな行動が、どんな大金の約束よりもありがたかった。

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